私は財産をすべて失い、48歳で再出発した…「カップヌードル」の生みの親が語る人生観
【連載】「あの名言の裏側」 第7回 安藤百福編(1/4)まずは自分の足で立ち、自分の意識で動き出す
自らの足で歩き、
自らの目で確認しなさい。
そうでなければあなたの話には
重みも説得力もない。
──安藤百福
現在、私たちの食生活に欠かすことのできないインスタントラーメン。2015年、インスタントラーメンは全世界で977億1000万食、日本国内だけでも55億4000万食も生産されており、産業として、食文化として、確たる存在感を放つものになっています。
今回から取り上げる安藤百福氏は、そんなインスタントラーメンの歴史に偉大な足跡を遺した人物です。1910年3月に日本統治時代の台湾に生まれ、2007年1月に亡くなりました。
安藤氏は日清食品の創業者であり、同社の定番商品「チキンラーメン」(1958年発売)、「カップヌードル」(1971年発売)の生みの親として知られています。戦前から繊維商社、貿易会社、光学機器・精密機器の製造など、さまざまな事業を展開してきた安藤氏。第二次世界大戦を経て日本が焼け野原となり、ほぼすべての事業が無に帰してしまいますが、終戦直後から百貨店事業や製塩事業などに取り組み、市場の復興、雇用の創出に尽力しました。
とはいえ、戦後期の歩みは決して順風満帆なものではありませんでした。たとえば製塩事業に関連して脱税容疑がかけられ、GHQに身柄を拘束されてしまう…というトラブルに巻き込まれたことも。
安藤氏の製塩事業は、ビジネスというより社会活動という側面が強く、ヒマそうにしている若者や、仕事にありつけず生活に困窮している復員兵たちに、「ブラブラしているくらいなら、一緒に働こう」と“やること”を提供する主旨のものでした。できあがった塩は近隣の人々に配給するなど、そもそも利益重視の事業ではなかったのです。そのような事業なので、安藤氏は働いてくれた若者に、給与の形ではなく奨学金(要はおこづかいのようなもの)としてお金を渡していました。これが、警察や税務当局の目にとまります。
若者たちに支給していた奨学金は所得とみなされ、事業者が従業員の給与から源泉徴収して収めるべき税金を納めていないとして、脱税を疑われてしまいました。一方的な裁判が行われ、たった一週間で出た判決は「4年間の重労働」。並行するようにして、大阪財務局は安藤氏の財産を差し押さえ、所有していた家、工場のほか、すべての不動産を没収。安藤氏は巣鴨プリズン(東京拘置所)に収監されてしまうのです。その後、安藤氏は弁護団を組織して2年間の法廷闘争に臨み、当局と和解。ようやく自由の身になります。
安藤氏の苦悩は、これだけでは終わりませんでした。製塩事業の一件が落ち着いてほどなく、安藤氏は再三の要請にほだされるようにして信用組合の理事長に就任します。しかし、その信組はあまり時を置かずに経営破綻。安藤氏は金融機関の経営者として、社会的責任を問われてしまい、またしても財産を失ってしまうのです。
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